芦生の森は本当に原生林か?


(芦生の森の歴史を辿る)TENSION 井上好司

芦生は貴重な原生林が残っている森として知られている。約100年前に京都大学が
京都府美山村から研究林として賃借したおかげで開発の手が入らず原生林として
残ったと一般的には言われている。

芦生の森は本当に原生林か?

森は大きく自然林と人工林の二つに分類することができる。自然が作った自然林、 人間が作った人工林。  人工林は太平洋戦争後、建築資材不足を補う目的で広葉樹林であった自然林を 伐採して建築資材に向いている杉やヒノキなどの針葉樹を植林して作られた。 日本の森林の約4割が人工林。  また自然林は原生林と二次林とに分類できる。原生林とは人間の手が入っていない森。 原生林に対して自然災害(台風や山火事)や人が利用するために伐採した後、 自然に再生している森が二次林。日本の国土には原生林がほとんど残っていない。 ほとんどの自然林は二次林。  江戸時代の頃からカッタイ道という山道があった。カッタイとはライ病或いは ハンセン病者の差別用語である。彼らは一般的に嫌われるので普通の道を通らず 彼ら専用の山道を通って行き来していたそうだ。  四国や紀伊半島に特に多く遍路や高野・熊野詣の際、一般人の道とは別の道として 山中にあったようだ。映画「砂の器」でライ病の親子が村から追われて数年彷徨する ロングシーンがあるが彼らが歩いたのもおそらくカッタイ道だったのだろう。  カッタイ道の他にも山の中には人里を通らないいろんな道があり、例えば秋田の マタギは山の尾根ばかり歩いて奈良まで行き来していたらしい。  サンカと呼ばれる人びともいた。定住地を持たず仕事を求めて移動しながら 山中に仮の小屋のような住まいを作り仕事をしてはまた移動を繰り返す。  そんな中に木地師を呼ばれる木器職人がいて、その中心が近江の小椋村、 今の滋賀県東近江にあってそこを中心にたくさんの木地師たちが全国の山を 歩きつつ木工に適した樹木があればその場にしばらく居つき木を切り倒して 木器(生活用具や農機具など)を作り近くの里に売りに行ってはまた次の山に 移動するという生活をしていた。その記録が近江に残っていて高島からすぐ近い 芦生の地名がたくさん出てくるらしい。  江戸時代初期には木地師の住戸が櫃倉・灰野・野田畑・中山(これらの地名は 廃村になっているが今も芦生の地図に残っている)に数十戸あった。  江戸時代中期では知井村の人々の共有林で薪や炭の原材料になる木を伐りだしていた。  明治の初期になると芦生を源流とする由良川を使って材木を佐々里を超えて陸揚げし、 京都大阪へ運んでいた。  明治中期に野田畑に木地師の住戸が3戸あったのが確認されていて当時の木地師に よって植えられたクロマツ・スモモが現在も残っている。  そして昭和30年代、最後の山番が灰野を降りた。灰野には今も廃村址が残っている。  芦生の森の歴史を簡単にたどるとこのようなことだった。芦生研究林に勤める京大の 先生から聞いた話と宮本常一の「山に生きる人びと」を参考に簡単にまとめてみたが、 その京大の先生は芦生の森は「原生的な天然林が部分的に残された森」という言い方が 正しいと言っていた。 因みに、約100年前京大がこの森を借りた目的は「財産林」、つまりたとえば冬場に 大学の暖房のための薪や木炭を供給したり、木を伐って売ることで現金収入を得たり、 うまく運用して大学の為の資金を得るための施設だったそうだ。ということで 芦生でもやはり広葉樹林を伐採して針葉樹の植林をしている。ところが暖房に薪や炭を 使わなくなり、杉の生育にはこの地は豪雪過ぎて適さないことが分かった。またこの地は 京都市内から近いが交通の便が極端に悪い地であった為、有史以来人の立ち入ることが 少なかった。それゆえ天然林が残っていて、そこに研究林としての価値が見出されて現在に 至っているようだ。

芦生の森にもダム湖に沈む危機があった。

関西電力が大飯原発の夜間の余剰電力を使った揚水ダム発電所を芦生の森に作る計画をした時、 京大が徹底的に反対したのも、天然林としての無限大の価値を見出していたからこそのことである。 上谷や下谷、櫃倉谷をダム湖に沈める関電の計画に対して、近隣町村にも賛成派反対派の 骨肉の争いがあり、廃村に追い込まれた集落もあった。福井県のおおい町名田庄村の永谷集落は 写真でしか見たことがないがゴーストタウンの姿が悲しい。 由良川源流域である芦生にダムが建設されれば山中の水脈が途切れ由良川の水質が変わり、 その結果下流の海である若狭湾西部(舞鶴湾・栗田湾・宮津湾)辺りの生態系に悪い影響が 及んでいたはずだ。 筑後川の改良によって死の海と化した有明海は見るに忍びないが、同じように由良川は 天橋立や伊根・冠島の環境を作っていることを忘れてはならない。芦生の森は若狭湾の 「魚付林」なのだ。 この計画が白紙撤回されたのは2008年、まだつい先日の事である。今年(2016年)国定公園に なったのでもうダム建設の可能性はなくなったと言っていいだろう。 熊野にはカヤックを漕ぎに幾度か行っているが、芦浜という泣きたくなるくらいに美しい浜がある。 中部電力の原発建設予定地。 「特別に美しい海岸線に来たら原発の建屋が現れる。」とは、シーカヤックで日本一周した人から よく聞く話だが、僕にとって芦浜はその典型的な例だ。ここも計画は中断されているようだが、 悲しい歴史がきっとあるのだろう。原発やダムが現存している場所の中には芦浜や芦生のように 美しい所を壊した例がたくさんあるはずだ。  ダムや原発に限らず、神社合祀令、廃仏毀釈等、明治維新以降に、郷土の文化や自然の遺産を 相当破壊して現在が作られたのかと考えると複雑な思いがする。  古代から美しい所には神が降臨するが、廃仏毀釈で仏を壊し、神社合祀で八百万の神々の御神木を 切り倒した現代日本人は神仏を恐れる感覚を失った。 この期に及んで信じられない話だが、原発の新設計画が山口県上関で今も尚続いている。 上関、田ノ浦、祝島も美しい海だ。芦浜や芦生が残されたように田ノ浦の豊かさは残さなければ ならないと強く思う。原発建設阻止の為に自然と共に生きてきた漁師や自然と真摯に向き合ってきた 海屋は動いている。 (「原発を作らせない人びと―祝島から未来へ」岩波新書参照) 南アルプス赤石岳山麓にリニア新幹線の建設が予定されている。赤石岳にトンネルが貫通し、 大鹿村の谷合に橋を架けリニア新幹線が高速で走る。 赤石岳山中の水系は途切れその下流域の川の水質は変わり豊かな駿河湾の生態系にも影響が 及ぶことだろう。 さて、南アルプス好きの山屋はこの計画に何を感じるのだろうか?
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